当寺宝物写し帳 1799年

大永元年からの廣讃寺の歴史、寶物、土地、当時の法要の内容、古文書(お手紙)などを廣讃寺10代目住職・法薗がまとめた帳面である。
この地は古くから輪中であり、水害によって、歴史的資料が数少ない土地であるものの、庫裡の改築によって発見され、宗教的・郷土資料としても重要な資料の一つと考えられる。
当寺宝物写し帳より「徳川家康より褒美」(1602年の記録)

当時宝物写し帳には、次のように書かれている。
組合法中にお金、馬、刀、薙刀、幕府と武士と同等の地位を与える。
慶長七年 徳川家康 判
教如上人の移動の際の土地の僧侶が主となり護衛を勤めていた。
廣讃寺は川並組だと推察され、廣讃寺も護衛、出兵など何らかのかたちで功労したと考えられている。
その後、関ヶ原で家康は勝利、この褒美を授かった年と同年、
教如上人は家康より京都の土地を授かり、正式に東本願寺派を名乗ることになった。
勝利した直後、政治体制を整えるための政策の一つとも考えられ、歴史的に興味深い資料となっている。
他の資料を確認すると、
本願寺十二世(東)教如上人は、1600年関ヶ原の戦いで、次に天下人となる家康に協力、
この美濃の地で、末寺、信者にその旨を伝えるべく滞在されたとも考えられる。
「川並十五日講」

かつてこの地にも「講」というものがあった。
同一の信仰者たちによる結社のことである。
「講」という文字は「講義」「講読」という言葉にも用いられているとおり、
内容は仏典を講読・研究する僧侶の集団を指すものであった。
年号は不明であるが、上と右下は苗字がついていることから比較的新しく、明治時代の物ではないかと推察される。
一方、左下は、花押(印鑑の代用)が有ることから、江戸中期以前の物だと推測される。
阿弥陀極楽浄土國・絵図(ウゲン・ナムゲン師作)
非常に貴重なため、インターネットでは非公開とさせていただいております。
報恩講などの折に御開帳致します。ご参詣の際は、是非ご覧ください(写真撮影禁止)。
