
宝物
GALLERY —
歴史資料・美術品 —
廣讃寺所蔵の宝物
廣讃寺に残る古文書や宝物を紹介するギャラリーです。
近年、歴史資料は、過去の出来事を記録するものとしてだけでなく、地域の歴史や文化を理解し、現代社会に活用するための文化資源としても注目されています。
例えば、国土地理院では、過去の自然災害に関する石碑などを「自然災害伝承碑」として地図上で公開し、教訓の伝承や防災教育に活用する取り組みが進められています(参照:国土地理院)。また、人文学の研究分野では、歴史資料のデジタル化やデータの利活用が進められ、また古気候研究や古地震研究をはじめ、さまざまな分野への応用の可能性が示唆されています(参照:人文学オープンデータ共同利用センター『「歴史ビッグデータ」プロジェクト』)。
廣讃寺にも、寛政11年(1799)に第10世住職・法薗がまとめた『当寺宝物写し帳』をはじめ、寺院の沿革、土地、法要、書状などに関する記録が伝えられています。また、「川並十五日講」の記録など、江戸時代中期以前にさかのぼると推測される資料も残されています。
これらの資料は、全国的に知られた著名な史料というわけではありません。しかし、廣讃寺の歴史を明らかにするだけでなく、地域の信仰や生活、社会の変遷を考えるための手がかりにもなります。地域に伝わる記録を保存し、その内容を広く紹介することは、歴史的知見を共有し、地域の文化資源を次世代へ継承していくうえでも重要であり、特に地域の生涯学習や子ども達の郷土学習のための一次資料としても活用できる可能性があります。
本ギャラリーでは、廣讃寺に伝わる古文書や宝物を紹介し、その歴史的意義と現代における活用の可能性を伝えていきます。
1799
寛政11年
古文書—
『当寺宝物写し帳』

大永元年からの廣讃寺の歴史、寶物、土地、当時の法要の内容、古文書(お手紙)などを廣讃寺10代目住職・法薗がまとめた帳面である。
この地は古くから輪中であり、水害によって、歴史的資料が数少ない土地であるものの、庫裡の改築によって発見され、宗教的・郷土資料としても重要な資料の一つと考えられる。
1799
寛政11年
古文書—
「徳川家康より褒美(1602)」の記録
当寺宝物写し帳より ―

『当時宝物写し帳』には、次のように記されている。
組合法中にお金、馬、刀、薙刀、幕府と武士と同等の地位を与える。
慶長七年 徳川家康 判
教如上人の移動の際の土地の僧侶が主となり護衛を勤めていた。
廣讃寺は川並組だと推察され、廣讃寺も護衛、出兵など何らかのかたちで功労したと考えられている。
その後、関ヶ原で家康は勝利、この褒美を授かった年と同年、教如上人は家康より京都の土地を授かり、正式に「東本願寺派」を名乗ることになった。
勝利した直後、政治体制を整えるための政策の一つとも考えられ、歴史的に興味深い資料となっている。
他の資料も確認すると、本願寺十二世(東)教如上人は、1600年関ヶ原の戦いで、次に天下人となる家康に協力、この美濃の地で、末寺、信者にその旨を伝えるべく滞在されたとも考えられる。
江戸
江戸時代中期~
古文書—
「川並十五日講」

かつてこの地にも「講」というものがあった。
同一の信仰者たちによる結社のことである。
「講」という文字は「講義」「講読」という言葉にも用いられているとおり、内容は仏典を講読・研究する僧侶の集団を指すものであった。
年号は不明であるが、上と右下は苗字がついていることから比較的新しく、明治時代の物ではないかと推察される。
一方、左下は、花押(印鑑の代用)が有ることから、江戸中期以前の物だと推測される。
現代
平成
絵画—
阿弥陀極楽浄土國・絵図(ウゲン・ナムゲン師作)

浄土三部経の『仏説阿弥陀経』『仏説無量寿経』を、チベット人仏画師「ウゲン・ナムゲン師」が1年8ケ月の歳月をかけて描き上げた阿弥陀極楽浄土の絵図です。顔料は全てチベット産天然岩絵の具(宝石を細かく砕いたもの)を膠(にかわ)でといて彩色したもので、日本の絵の具とは異なり、年々鮮やかになります。
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